王銘琬コラム
いま、なぜ「純碁」なのか?
文・王銘琬(日本棋院棋士・九段)
囲碁を人間の知性のシンボルとみなし、AI(人工知能)の先兵アルファ碁(AlphaGo)は人間を破ることで、人間を超えたことをアピールしました。そして世界はこの言い分を認め、アルファ碁によって、AIの能力が人間を超えたあとの議論を、真剣に始めるようになりました。アルファ碁によって「囲碁は人類の知性の象徴」であるということが、世界に公認されたと言えます。
一方、最新版のアルファ碁の棋力は人間を大きく超えました。今まで人間は囲碁の「棋力」を非常に重視してきました。棋力が高いことは、低いことよりも「価値」があることと、当然のように思ってきたのではないでしょうか。
しかしこのような考え方からいきますと、アルファ碁の棋力が人間よりも高いので、その価値も当然人間を大きく上回ることになります。そして、人間はどんなに努力しても、もはや新しい価値を創出することが不可能になります。このような状況は囲碁に限ったことではなく、将来あらゆる分野で起こるようになるでしょう。
アルファ碁がはっきりと示したことは、どんなことでも結果だけで評価していては、人間にとって有意義なものは見えてこない、という厳然たる事実です。仕事や作品の過程と、その結果をワンセットとして評価することで、はじめて人間にとっての価値として輝く、そのような時代になったのではないでしょうか。
囲碁の別名である「手談」があらわすように、対局者にとって囲碁は「もう一つの言葉」になります。対局者どうし、そして観戦する人までもが、盤と石を介して、濃密なコミュニケーションを行うことができるのです。
アルファ碁が現れる前までは、囲碁研究の最前線が知性の最高点の意味も兼ねていたので、囲碁界は技術の向上をとても重視してきました。そのため、囲碁がシンプルでいて奥が深く、極めて優れたコミュニケーションツールである、という側面を忘れがちなときもあったのです。
「純碁」は囲碁のもっともわかりやすいかたちです。どなたでも「純碁」によって、「人類の知性の象徴」をすぐさま遊び・楽しめるようになりました。これからAI社会に入っていくなか、人と人とのつながりはますます希薄になっていくことでしょう。純碁・囲碁によって得られる他人とのコミュニケーションは、大変貴重なものとなるでしょう。そしてAIに囲まれるなか、自分が人間であることを確認できる一番楽しいこと、それは「碁を打つこと」に他ならないでしょう。